ファドを聴きながら
今年だけが休みのその日、私は夜の繁華街を歩いていた。
どの店も潔く今日は店を休んでいる。
アテにしていた店もそうだったので、踵を返して別のエリアへと向かった。
どうやらこの一帯は、今日店を休んでいる、というよりもすでに閉めてしまった店が多いようだ。 一件ポツンと灯りの灯る店の前を通り過ぎた。
客が二人とマスターが見える。
立ち飲みの店っぱいが、一人はパイプ椅子に腰かけている。
店を通り過ぎて、しばらく先まで歩いてみたが、どうやら良い所の見つかるミコミは薄いと直感が云う。
結局さっきの店に入った。
「いらっしゃい」
力なくマスターは言った。 「また来るね!」五十代の男性客とちょうど入れ違いになった模様。
「何にします、ウチはワインか焼酎しか置いてませんけどエヘヘ」との事。
ワインの赤を注文したら、並々グラスに注いでくれた。
チーズをかじりながら、年配の女性客とマスターとの世間話に聞き耳を立てる。
マスター:さっきのお客さん、今日初めて口聞いたんだよね。
女性客:あの人どこの店にも顔出しているわよ。 C子ちゃんが言ってたわ、ツケを払ってくれないんだって。
今度は白ワインを注文してみた。 どうやらグラスはそのまま流用するらしい。
「中々の呑みっぷりだ事」
年配女性が声をかけてきた。 とっさに「あ、ドウモ」と返したが、別に褒められているワケではないよなと内心思った。
この方はやけに声が低い。
とっさにマスターが「古い常連さんなんです」と紹介してくれた。
身なりは極めて整っており、背筋がシャンと伸びていて凛々しい。 そんな人が場末の立ち飲み屋でパイプ椅子に腰かけて飲んでいる姿がいかにも滑稽である。
「デヘヘ、いくつに見えますこの方」とマスターは女性を指しながら私に聞いてきた。
そう聞かれるからには結構いってるけど若く見えるパターンである事は明白だ。
そこでワインを口に含んでしばらく間をとりながら、自分が思っている本当の年齢帯より10歳若く返事をしてみた。
「失礼ながら、55歳でいかがでしょうか」
眉ひとつ動かさずこちらをじっつと見続ける女性。
少し大袈裟に若く言い過ぎたかと後悔した矢先、
「これまで2000人に聞いてきたけど誰も私の歳を当てられないのよ」と女性。
一体何年費やしてそれだけの人に尋ねてきたのかを聞きたかったが止めておいた。
なんと85歳になるのだという。
嘘ではないかと思えるほど若い。 どう多く見積もっても六十代後半にしか見えない。
なんでも銀座で長く勤めていたのだという。 上客には王貞治や長嶋茂雄がいたという。 地元に戻ってからは、後輩の指導に精力を傾けて今日にいたるらしい。
某元大統領夫人とは今も仲が良く、たまに会って食事したりもするらしい。
酒は毎晩飲むそうで、それが若さの秘密のひとつであるという。 この店には家で飲んでいて寂しくなった時に来るそうで、界隈には行きつけの店が点在しているらしい。
これから店を変えて呑み続けるそうで、一緒に来るかと誘われたがやんわり断った。
女性は会計を済ませてパイプ椅子から立ち上がった瞬間、もう一度私を見て「一杯ごちそうしてちょうだい」と言った。
「喜んで」と白ワインを一杯奢ると、また椅子に座りまるで水を飲むかのようにスーッとグラスを空けて出ていった。
その姿をドアまで見送ったマスターは戻ってくるなり私にこう言った。
「あの人の相手をおまかせしてしまってスミマセン、しかしあの人、ほんと男には見えませんよねえ」
えっ。