ヤモリの死闘
川沿いの古びたビルの一階に、お母さんが一人で切り盛りしている料理屋がある。
いつもお客はめっぽう少なく、なのに昭和から続いている老舗である。 たまにここの暖簾をくぐり、ガラガラのカウンターに腰掛けて、いいちこのロックを飲みながら地鶏のたたきを食べるのが楽しみだ。
フと窓ガラスに目をやると、ヤモリが一匹張り付いている。
店から漏れる灯りに寄って来る羽虫をここで、狙っているのだ。
虫がガラスに止まれば、ジリジリと距離を詰めていく。 その様子は、あたかも獲物へにじり寄るサバンナのチーターみたいに姿勢を落とし、その必死さがコチラにまで伝わってくる。
虫もバカではないから気配を感じたらすぐ飛んでいく。 でもひっきりなしに、虫は飛んでくる好猟場がこの店だというわけだ。
限界まで近寄る事ができたら、一気にヤモリは飛びかかる。 無事成功し、口にくわえこむ事もあれば、勢い余ってガラスから落ちてしまう事もある。
それでもしばらくしてまたガラスを見れば、ヤモリはぴったり張り付いて、獲物が飛んでくるのを待っている。
ある時ポツンとガラスの端に、もう一匹ヤモリがいる事に気が付いた。
そのヤモリは、じりじりとガラスの中央へむかって歩み寄ってくる。 先陣のヤモリはもちろんこれに気が付いて、この猟場を独占すべく戦いを挑む。
お互いひと飛びすれば相手に何らかのダメージを与える事のできる距離まで近づくと、いきなりそうするのではなくまず威嚇を始める。
尻尾をクネクネと、まるでガラガラヘビであるかのようにくねらせて威嚇する。 その動きの滑らかさは、思わず動画に収めておきたいほど見事で、この先どれだけロボット技術が発達しようとも、真似て再現する事は不可能であろう繊細さである。
もしもレッドブル社の幹部がこの光景を見れば、きっとスポンサーになりたいと申し出てしまうほど美しく緻密な動きをしている。
威嚇されている後発のヤモリは微動だにしないのだが、よく見ればいびつな尻尾の形をしているこのヤモリは、たぶん直近も同じようなシチュエーションで戦いがあり、その際自らの尾を犠牲として難を逃れたのだろう。
ヤモリの繊細な尾はデコイとしても機能する。 そして恐るべき事に、失われた尾は再生される。 子供の頃幾度となく見たヤモリの尾が地面でバタついている光景。 その様をまさか、酒を楽しんでいる最中に思い出す事になろうとは、夢にも思わなかった。
当分決着のつきそうにない二尾のやりとりを尻目に店を後にした。