ボラヘソ
なじみの料理屋でハラカワのことを絶賛していたら大将の目が怪しく光った。 うらやましがられたのかと思いきや「へーえ」という精気のない相槌をされ、「まだまだだな、オイよ」と言わんばかりに見下された。
だって喰ったことなかとやろうもん。 その態度、どがんなっとっと!と突っ込んだら、ガサゴソとカウンターの下をまさぐって袋を取り出した。
中から出てきたものは、見覚えのある物体なのだが、なぜこんな姿になっているのかが皆目見当がつかない。 カラスミの一部なのだ。
カラスミの下の部分、ちょうどボラの腹と卵巣が接する部分だけが袋一杯詰められている。 カラスミは、あの美しい形も味のうちである(参考:?)。 それをなんで切り落としてしまったのだろうこの人は。 飲みすぎてついにおかしくなったのではなかろうか?
ところがワケを聞くと、同情せざるを得ない事情があった。
梅雨時期に仕込んでいたおびただしい数のカラスミを、全部ダメにしてしまったらしい。 梅雨の湿気で、カビでしまったのだとか。 この人の作るカラスミは低塩でモッチリとした、ほどよい乾燥具合が持ち味の絶品であり、どこのカラスミにも引けをとらないと思っている。 それが全滅してしまったとは、なんちゅうもったいない話・・・。
捨ててしまうのも忍びなかったので、何とか食べれそうな部分だけを切り取って集めた結果、ボラヘソの部分ばかりになったらしい。 でも大将、ヘコんでいるばかりではない。
なにを隠そう、カラスミで一番旨い部分は、このボラヘソなのだから。
清水の舞台から飛び下りるつもりで買ったカラスミを紙のように薄くスライスしながら大事につまみ、ついに最後、もうこれで終わりとなったときは悲しくもあり、嬉しくもある。
ついにこの部分に着手できるのだと密かに興奮してしまうほど、ボラヘソは旨い。
カラスミはボラの卵巣を塩漬けにしたものを指す。 だからこの、ちょこっとくっついているボラの腹身は、オマケというか、人によっては捨ててしまう部分である。
でも、旨いんだこれがまた。
軽く炭火で炙ってやると、脂がジリジリ弾ける音がする。 そこをつまみあげて喰うと、 馴れた脂の風味が酒飲みに襲いかかる。 どこか焼いたカチョカバロのような香ばしい風味があり絶品。 カラスミ本体は日本酒以外の酒と馴染むことをかたくなに拒むが、ボラヘソときたら焼酎よし、ブランデーかかって来い、ワイン大好きという八方美人ぶりを発揮するのだ。
ハラカワも旨いが、ベタ褒めするのはボラヘソを喰ってからにしろよという、へーえだったのだ。
売ってくれ、と何度お願いしても大将は縦に首を振らなかった。 だから秘蔵の日本酒と物々交換することにした。
こればっかりは、隠れて一人で真夜中に食べるんだ。
