新聞「紙」
朝起きてからすぐに新聞を取りに行く。 家族は皆、まだ寝ている。 濃い緑茶をすすりながら、パラパラと新聞を読み進める。 一日の中で一番静かなひととき。
大抵もうすこし読みたいな、というところで「オギャッ」と娘が起きる。 それを合図に子供たちは次々に目を覚ます。 ここで新聞は終了、今日もまた慌しい朝がはじまる。
新聞をずーっと取り続けている。 ニュースはウェブで得られるからと、しばらくやめたことがあったがまた取りはじめた。 その際朝日新聞から日経新聞にかえた。
そして今日、日経新聞をやめて、再び朝日新聞に戻した。
「ウェブで読みゃよかろうもん!」と言われたり、ビル・ゲイツは「あと5年もすれば紙の新聞は消え去るだろう」と言ったが、こちとらそうはいかない。
紙の新聞の一覧性が好きだ。 それに灰色の紙に黒の文字は目に優しい。 モニターで長文を読むのは苦痛だ。 やたら「次のページ」に色んな理由で細かく分割されていたり、縦にだだ長いページをスクロールさせるのもイヤ。
なにより、新聞「紙」が、我が家には必須なのである。
グラスが割れればそれをくるんでゴミにしたり、子供たちがたたんだり丸めたりして遊んだりそして、揚げもんの油を切ったり、買ってきた魚をくるんで冷蔵庫に入れたり。 無くてはならないものなのだ。
面白い話をひとつ。
以下、開高 健の『知的な痴的な教養講座』第三十章「コラム」を極個人的に要約したもの。
日本には現在、朝日、毎日、読売という三大紙がある。 これに日経、サンケイを加えて五大紙ということもあるらしい。
数十年まえから新聞を読まないことにしていて、それをひそかなプライドにしている。 なんで読まないのかというと、新聞を作る人たちが言葉のプロであり、文章によってメシを食っているという意識を無くしてしまったからだ。
事件が起こり、その事件を2+2=4、という文体で報道するだけならば、それはジャーナリズムとはいえない。 ジャーナリズムとは、文章である。 もちろん事実は伝えなければならないが、それにも無限の方法、発想があることを忘れてしまった。 この退屈さ・・・。
そんな新聞に、けじめをつけるのはコラムである。 良い日本語、おもしろい文章、啓発される文章で書かれたコラムがあるかないかが、新聞の生命線を決定すると私は考える。
大正末期から昭和にかけて、毎日新聞は薄田 泣菫の『茶話』というコラムを載せていた。 当時の毎日新聞はたったひとつ、この茶話だけで売れていた。 座布団サイズの新聞が、はがき大のスペースのコラムで売れていたのである。
そのころ、まだ新聞は文章によって読まれるという、本来の機能と美徳が生きていた。 新聞を作る人の意識の中に、文章を売るという意識があったのだと思われる。
これに対抗すべく朝日新聞が持ち出してきたのが、杉村 楚人冠のコラムだ。 わたしは薄田 泣菫の文章が好きだ。 機会があったら読んでみたまえ。 こういうコラムというものが、もうなくなってしまった。
あのコラムがあるから新聞を読もう、という喜びがなくなってしまった。
最近日本ではアメリカのコラムニストの文章がよく読まれているようである。 ボブ・グリーン、ロジャー・サイモン、マイク・ロイコ、ラッセル・ベイカー。 彼らのコラムには、文章を書いて生きているんだという意識が明滅していて気迫がある。
新聞は、洗面器やら毛布やら、野球のチケットを配ったりする拡販策で、部数だけは減らさずにいる。 しかし、そんなアホなことがいつまでも続くわけはない。 新聞は美しい言葉、いい文章、楽しさ、深さ、柔らかさについて考えなくてはならない時期である。
ニュースそのものは現代、即刻テレビで報道されてしまう。 そして、口コミという永遠の電光石火のコミュニケーション機関もある。 したがって、新聞の復権は、いまこそコラムにかかっているのである。 読みたくなるようなコラム、これが新聞なのだ。
[…] 知的な痴的な教養講座』に書いている。 […]