即筋肉痛
週五日、欠かさず走るようになってから五年程経つ。
太りやすいので体重管理のためというのが発端だったが、酒が旨くなったり、翌朝体内の酒を一気に抜く手段として極めて有効であることから、今では歯磨きと同じような習慣となり、走らないとなんだか気持ちが悪い。
この間しばらく長崎を離れたので、20日ほど走れないでいた。
久しぶりに走ってみると体の疲れが全部抜け切っており、足取りの軽さといえばもう、ナイキにスプリングでも仕込んだのかという軽快さで、フルマラソンでも楽勝で走破できると思えるほどだった。
一歩進むごとに、体が跳ねて飛んで行ってしまいそうなぐらい軽い。 普段と比べてタイムも段違いに良い。 ところが残りわずかというところで、両ふくらはぎの筋肉に鈍痛が走った。 走っていて、こんなになったのは初めてだ。
我慢して走り終えると、完全に筋肉痛になっていた。 年を取ると、筋肉痛は翌日ではなく二、三日間をおいてやってくるとよくいうが、当日即筋肉痛なんて初体験。 筋肉にとってはまさかの刺激だったのだろう。
ともあれ、この日から二日間は、歩くのもままならぬほどの筋肉痛に見舞われ、歩くたびに「イテ、イテテ・・・」と口から出るので周囲からかなり変な目で見られた・・・。
こないだ読んだ、村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』より以下抜粋。
僕がこうして二十年以上走り続けていられるのは、結局は走ることが性に合っていたからだろう。 少なくとも「それほど苦痛ではなかった」からだ。 人間というのは、好きなことは自然に続けられるし、好きでないことは続けられないようにできている。
そこには意志みたいなものも、少しは関係しているだろう。 しかしどんなに意志が強い人でも、どんなに負けず嫌いな人でも、意に染まないことを長く続けることはできない。 またたとえできたとしても、かえって身体によくないはずだ。
学校で体育の時間に、生徒全員に長距離を走らせている光景を目にするたびに、僕はいつも「気の毒になあ」と同情してしまう。 走ろうという意欲のない人間に、あるいは体質的に向いていない人間に、頭ごなしに長距離を走らせるのは意味のない拷問だ。
無駄な犠牲者が出ないうちに、中学生や高校生に画一的な長距離を走らせるのはやめた方がいいですよと忠告したいんだけど、まあ、そんなことを僕ごときが言っても、きっと誰も耳を貸してはくれまい。 学校とはそういうところだ。
学校で僕らが学ぶもっとも重要なことは、「もっとも重要なことは学校では学べない」という真理である。
僕の通っている東京のジムには「筋肉はつきにくく、落ち易い。 贅肉はつき易く、落ちにくい」という張り紙がしてある。 いやな事実だけど、事実は事実ですね。
身体というのはきわめて実務的なシステムなのだ。 時間をかけて断続的に、具体的に苦痛を与えることによって、体は初めてそのメッセージを認識し理解する。
決まったことを、決まった手順で、決まった言葉を使って教えられる教師はいても、相手を見て、相手の能力や傾向に合わせて、自分の言葉を使ってものを教えることのできる教師は少ない。 というか、ほとんどいないと言っていいかもしれない。
抜粋終わり。
またボチボチきばっていこうや、身体よ。