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2011/04/19

宮崎 駿『出発点 1979~1996』

出発点 宮崎駿

宮崎 駿の『出発点』をひと月かけて読んだ。

宮崎アニメのマニアだというわけではない。 ひとりのファンとして作品を鑑賞しては、感動しているという程度のごく一般的な好感度をスタジオジブリに抱いているわけで。

それにしてもこの本は面白かった。 以下、覚えておきたい部分を引用する。

天空の城ラピュタ

アニメーションはまずもって子供のものであり、真に子供のためのものは、大人の鑑賞に充分たえるものなのである。 パズーは本来の源にアニメーションをとりもどす企画である。

テーマもなにも、男の子が女の子と出会ってひと肌脱ごうという(笑)話で、男になったってだけなんです。

昔に書かれたSFという感じで作ったのです。 蒸気機関車の頃に書かれたSFのように書いたんです。

カリオストロの城

「・・・・・・もう十年以上昔だ。 オレはひとりで売りだそうとヤッキになってる青二才だった」(「カリオストロの城」のセリフより)

紅の豚

国際便の疲れきったビジネスマンたちの、酸欠で一段と鈍くなった頭でも楽しめる作品、それが「紅の豚」である。 少年少女たちや、おばさまたちにも楽しめる作品でなければならないが、まずもって、この作品が「疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のための、マンガ映画」であることを忘れてはならない。

となりのトトロ

「となりのトトロ」の目指すものは、幸せな心暖まる映画です。 楽しい、清々した心で家路をたどれる映画。 恋人たちはいとおしさを募らせ、親たちはしみじみと子供時代を思い出し、子供たちはトトロに会いたくて、神社の裏の探検や樹のぼりを始める。 そんな映画を作りたいのです。

これははっきり言いたいのは、あの時代が懐かしいから作ったんじゃありません。 やはり子供たちがあの作品を見たのをきっかけにして、ふと草むらを駆けたり、ドングリを拾ったりしてくれないかなとか。 もう本当にわずかになっちゃったけど神社の裏側にもぐって遊んでくれないかなとか、自分の家の縁の下を覗いてドキドキしてくれないかなとか、そういうことなんですよね。

アニメーションの主題歌はアイドルの売り出しに使われたりしますが、流行を見ても、結局声が出ず、音域のせまい今様の歌は子供たちの心をとらえていません。

せいいっぱい口を開き、声を張りあげて歌える歌こそ、子供たちが望んでいる歌です。 快活に合唱できる歌こそ、この映画にふさわしいと思います。

もうひとつの歌は、挿入歌です。 淡い物語を彩る歌ですが、劇中で子供たちが唱歌のように歌える歌にしたいと考えます。

トトロも縄文人から縄文土器を習って、江戸時代に遊んだ男の子をマネしてコマ回しをやっているんでしょう(笑)。 トトロは三千年も生きてますから、本人にとってはついこの間、習ったことなんです。 ひょっとしたら、カンタのバアちゃんが親にしかられて泣いて歩いていたとき、トトロに会っているのかもしれない。 トトロはひょっとしたら、小さいときのバアちゃんとメイを同じ女の子だと思っているのかもしれないんですよ(笑)。

最初は「このへんないきものは、もう日本にはいないんです。 たぶん」って書いたんですよね(糸井重里)。

  • カンタのノートに落書きしてあるのは杉浦茂のマンガ

ナウシカ

ナウシカは、ギリシャの叙事詩オヂュッセイアに登場するパイアキアの王女の名前である。 私はバーナード・エヴスリンの『ギリシア神話小事典』(社会思想社刊 現代教養文庫 小林稔訳)で彼女を知ってから、すっかり魅せられてしまった。

「風の谷のナウシカ」に出てくる「腐海」は千年前に人間が、環境の浄化のためにつくった装置だったわけですが、つくった人間たちにしても、腐海がどういうふうに変わっていくかまでは予見することはできなかった。 どんなすぐれた生物学者が寄り集まってやっても、それはできないですよ。

映画にしろ漫画にしろ、何かを作るために本を読むということは、ほとんどないですね。 それまでに気がむくままに読み散らかしたものの断片が、何かをつくろうとジタバタしているうちに、うまくいく場合は一本の糸だか縄だかに撚りあう。 そういう感じです。

『ギリシア神話小辞典』(エブスリン・社会思想社)をパラパラやってたら、オデッセウウスを救けるナウシカという少女の名に出会って、その印象が子供の頃に読んだ『提中納言物語』(角川文庫)の「虫愛ずる姫君」の記憶としだいに混じり合って、数年後に「風の谷のナウシカ」という形になっちゃった。

でも、源の部分は中尾佐助の『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書)や、藤森栄一の『縄文の世界』(講談社)でかきたてられたものだし、『断作戦』(古山高麗雄・文芸春秋)の雲南作戦やパウル・カレルの『バルバロッサ作戦』(フジ出版社)に描かれた独ソ戦だったりするんです。

(ナウシカの連載が足かけ十三年で終わったことについて)連載回数は五十九回ですから、単純には約五年間なんですが、その前後の時間があって、正味からいうと、ここ十二、三年のたぶん半分ぐらいは「ナウシカ」にかかっていたようです。 実は初めから完結できる自身はなかった作品なんです(連載を開始して三年目の1984年に映画が公開。 その10年後に完結。 4回の中断があった。 映画が終わってからのほうが、はるかに連載の分量は長い)。

※カッコ内はオイ脚注

千年森

近ごろ、しきりに「千年森」を空想する。

経営の行き詰まった相当面積の森林を確保し、人知の限りを集めて風土本来の植生を復活させる。 復活には百年単位の時間を設定し、絶えてしまった草木は新たに植え、足りないものは植林し、狼は残念ながら不可能だが、まだ生き残る獣、虫、鳥のすべての種を放つ。

気長にゆるやかにバランスが保たれるよう、人間はよけいな干渉をしない。 そのために使命感溢れたレンジャーを置き、法的権限を与える。

五十年もすれば、特別公園として観察と散策の良き場所になる。 訪れる人々のための細道と宿泊施設を設けるが、排泄、食事すべてにわたり厳重な制限を設定し、そこにはコンクリートも、アスファルトも、みやげもの屋もアルコールもない。 自動車ははるか手前でストップとし、レンジャーたちも域内では車は使わない。 千年、この森に斧を入れてはならない。 藤蔓が木を枯らし、ある種の虫が大量発生し、獣が傷ついても、人は手を出してはならない。

千年後、法隆寺の柱が朽ち、薬師寺の東塔がかしいだとき、この森に育つ何万本かの檜の数本が役に立ってくれるかもしれない。 もし人類が千年の時を生きのび、酸の雨をくいとめ得たら、この森は世界の宝になるだろう。 境界に自然石の碑を建てよう。 すぐ欠ける機械彫りでなく、石工の手で、世界中の文字で、この森は人間の源であると。 ぼくらは森の中から生まれたのだ。

子供について

幼稚園で字を教えるなんて発想を捨てることですね。

字をおぼえると、子どもってね、ちょっとくだらなくなるんですよ。

子どもにとって、恐いとか、不気味というのは、可愛いとか、面白いとかと交ざっているんです。 ワクワクするというのは、どこかで怖いんですよ。

あのね、走ろうという意識は、子どもにはないんですよ。 早く行こうと思う意識があるだけなんです。 早く行こうとすると、自然に走っちゃうんですよ。 だから、小さい子におつかいをさせて、「走っちゃ駄目だよ」って言って、「うん」と言うともう走ってるんですよ(笑)。

子供時代というのは、大人のためにあるんじゃなくて、子供時代のためにある、子供の時代にしか味わえないことを味わうためにあるんだと思う。

子供時代の五分間の体験というのは大人の一年間の体験より勝るんですよ。 トラウマもそのときにできるわけでね。 その時期にどれほど社会全体が知恵を絞って子供たちがいかにのびのびと生きられるようにするか。

個性とかなんとかいいますけど、個性なんてその子供時代の体験から育つもんです。 初めから個性があるわけじゃないんです。 ですから、個性を伸ばすとかなんとかいろいろ言いますけども、そういうことは止めて、子供を一回大人の監視下から解放する。 そうすれば遊び場がなくても子供は遊びます。

それから僕らの仕事もそうなんですけども、アニメーションとか、ゲームとか、いろんなことを言いながら金を稼ぐために子供たちを相手にしている商売を、法的に規制するしかないと思うんです。

子供時代に先行投資すれば、そのあとそれが大変な配当になって戻ってくるという錯覚でしょうね。 これは自分自身がつまらない人生を送っている親の、勝手な幻影なんじゃないかと僕は思うんですけども。 その考え方を実は司馬さんなんかが、なんで日本人はこうなってしまったんだろうと、一番憂えていたんじゃないかと僕は思うんですけど。

三歳児までは、テレビを見せるな!(笑)と思っています。 三歳児までは自分の周りの現実を触って見てればいいんだと思うんですよ。 で、六歳児までは、テレビを見るのはやはり特別の時間として制限すべきだと思う。

特別なときだけ見ていいものとしてね。 テレビ局にもそういう番組を作ってほしいと思いますけど。 六歳以後は、嘘と本当の区別がつくから、それぞれのルールで、マスコミに食い殺されない程度に楽しむのは悪くないと僕は思っているんですけども。

三歳児までは現実とブラウン管のなかのことが区別つかないんですよ。

六歳児までは混同するんです。 それで、たとえば四歳の子なら、そのブラウン管をみつめている時間を、本当は自分の五感すべてを働かせて、世界を探して歩かなきゃいけない。

たとえば、この灰皿に関心を持って、親がいつもはノーっていうんだけど、親がたまたまいなくて、タバコの吸い殻を食べてしまい、おいしくないから吐き出したり、飲み込んでしまったり、灰皿をかじってみたり、ひっくり返してみたり、いろんなことをして、舌から感覚から、音も嗅覚も視覚もふくめて、世界を探して歩かなきゃいけない時期に、ブラウン管の強制された視点で、物を見つづける。 それは、一匹のゴキブリやネズミをめぐって、それをやらなければいけない時間を、ビデオを見ることに費やしていることになるんです。

現実とブラウン管の区別がつかない子どもたちがそれをやったら、最初から疑似体験で、それも視覚と聴覚を刺激するんでしょう。 嗅覚とか触覚とか、そういうものに対して極度に鈍感だったり、鋭敏だったり、たとえばちょっとした体臭にも恐れおののくというのは、そういうことと関係があるんじゃないかと思ったりするわけです。

それは「トトロ」をくり返し見るだけじゃなくて、ご飯のときにテレビをつけるとか、そういうこともふくめて、日常的に、映像を一方的に享受するだけの生活をさせられて、そのなかで子どもが育っていくというのは、いったいどういうことなんだということを、本当は問わねばいけないじゃないかって思うんです。

ビデオを一万本集めてて、食事はカロリーメイトを食べていれば平気という青少年に会ったり、あるいは稼ぎのほとんどをビデオに注ぎこんでいるというような、バランス感覚のない人間たちに出会うと、ぼくは彼らに「おまえ、バカだ」というよりも、それを育てた環境に、つまり日本の社会のありようのなかに問題があるんじゃないか、そうとしかいいようがないんです。

だから、いまからでも、そのことに気づいた人たちがいたら、そういうことはやめてくれといいたい。 テレビの幼児番組がありますが、音楽がほしかったら、親と一緒に歌ったり、レコードをかけたりすればいい。 テレビに子守をさせるのはやめて、そういうことをやれっていいたいんです。

親と子供が、向かい合ってなんか気をつかいあうのが愛情だと思っている人間が多すぎる。 子供を日常的じゃない空間に連れていってもいいけど、あとは子供たちに任せればいい。 そうすると、子供たちはイキイキしますよ。 大人はただお金を払って、「メシだぞ、集まれーッ」とか、「遠くまで行くな」なんて言って、寝転がっていればいいんですよ。

血っていったい何ですか。 親からもらったものでしょう。 自分が習得したものじゃないですよね。 才能っていうのは、みんなそうなんです。 無意識のうちに平気で使っていられる時期から、意識的にその力を自分のものにする過程が必要なんですよ。 それはウルスラが言ってる言葉と同じです。 いくらでも絵は描けたけど、本当に自分のものだと思っていたものが実はもらったものだったと。

まず、つまらない校長先生の話を聞くために、なぜ朝礼がいるのか。 人前で話をしたい人のために朝礼があるんだと僕は思うんですけれども。

人間に害するから害鳥で、人間に役に立つから益鳥というのも、おかしな話でね。 風景ってのは、見る人間感情によって印象が変わるんですよ。 豊かな自然というのは、同時にすごく凶暴な自然であるはずです。

人が美しい夕焼けについて語るとき、急いで夕焼けの写真集をひっくり返したり、夕焼けを探しに出かけるだろうか。 そうじゃない、記憶も定かでないとき、母の背で見た夕焼けの、意識の襞(ひだ)に深く刻まれた情感や、生まれてはじめて、「景色」というものに心を奪われる経験をした夕焼けの光景、さみしさや、悩みや、心あたたまる想いにつつまれた、たくさんの夕焼けの中から、君は自分の夕焼けについて語るはずなのだ。

アニメ

こんなにアニメーションがあるのはおかしいですよ。 そのアニメーションがアメリカに行ったからとか、ヨーロッパに売れているからって、そんなもの民族の誇りでもなんでもないですね。 逆に情けないことじゃないかなと僕は思ってるんですけどね。

いま、アニメの世界にいる若い人たちの中には、アニメが好きというだけでいきなり飛び込んできた人もかなりいる。 その人たちにたとえば「チャイカ」(未来少年コナンに登場した飛行艇)が飛ぶときに、どういうイメージで飛ぶかを描いてもらう。 そうすると、過去にみたテレビ・アニメのイメージしかわいてこない。 これではダメだ。

自分本来のイメージで飛ばそうとするならば、飛行機に関する本を一冊でも読んで、そこからのイメージをふくらませてほしい。

製作者として

私はお菓子をつくって駄菓子屋に卸していく。 そういう感覚でいます。 そのお菓子はおいしくなくては話にならないし、店に並ぶ他の商品より売れないのでは困ります。 ですから、それなりに色がついていなくてはいけないわけです。

見た時にこちらの方がおいしそうだというものを作らなくてはいけない。 ただ、駄菓子だからといって、有毒色素や問題がありそうな合成保存料などを混ぜてもいいんだという考え方は良くない。 そういう意味では、コストが高くなっても、きちんとしたもので、他の駄菓子にひけをとらずに、子供の手が伸びてくるものを作らなくてはいけない。

いま日本にいる子どもたちの現実を子どもたちの願いもふくめて描き、子どもたちが本当に心から喜べるようなフィルムを作りたい。 そういう根本的な自分たちの立場というのは、絶対忘れちゃいけないと思うんです。

それを忘れたときに、このスタジオは滅びるだろうと思う。 だからといって、会社つくりや賃金体系にお金をかけたら、それをとり戻そうとして安全パイを握ろうとして企画を立てたら、とたんにやっぱりつぶれるだろうと思う。

つぶれるというより、つまらない作品になってダメになっていくと思う。 いつも観客の予想を超える、意表をつくようなかたちの、新鮮な企画や作品を作らなきゃいけないと思うし、それをいまいるスタッフたちだけでやれるとは思っていないということです。 だから人材に対して常に門をあけているスタジオにしなければいけないですね。

今の映画のイメージでは、極端にいえばまるで富士の裾野や北海道の原野でしか合戦が行われなかったかのようだが、これも実際にはお地蔵さんの横で戦ったのかもしれないし、あぜ道や肥溜めがあるところを人馬が駆け回ったはずである。 萓(かや)の原っぱや藪をかきわけて戦をやったと思うのだ。

その他

マントルが、どれくらい動くかっていうと、一年間に三センチ動くんです。 一年間三センチをね、マントルを僕らがじーっと見てても絶対見えないでしょ。 見えないけど、もし君たちが高さ千メートルくらいの生き物で、寿命が一万年、いか一万年じゃ足りないから百万年くらい生きる石でできた巨人みたいな生き物だったとすると、マントルが動いているのが見えるかもしれないでしょ。

いま、この事務所(スタジオジブリ)の屋上を一面緑で覆っちゃおうと、大学で造園をやった息子に設計を頼んでいるんです。 ただでやるというから(笑)。 建物への日光の直射が避けられるから、冷房の費用が倹約できますが、これは副次的なものですね。 チャンスがあるならやりたい放題やったほうがいいじゃないですか。 一回やりたいことをやってみようって。 一番力の強い、野生に近い芝を植えて、あとは雑草の種をどんどんばらまいているうちに、極相(クライマックス)になるんだろうなんていい加減な考えでね。

某玩具メーカーでは、六〇パーセントの広告料をあるアニメ会社に支払っています。 ということは、商品をそのままアニメにして子供に買わせていることと同じことになってきます。 子供のアニメーションの世界を、大人が露骨に商品化していくのが現実なわけです。

その中で、そういう現実に気づかぬふりをしながら、アニメの世界は「旅立ち」とか「愛」とかいろんなことをいいながら、商売にしている。

いま、本も雑誌も数が作られすぎているため一冊一冊の値打ちがなくなるだけではなく、きちんと見ておかなくてはいけないものまで見落としてしまっています。 本当に必要なものが何であるかを見極めることが、大切だと思います。

毛沢東がこんなことをいっています。

「創造的な仕事をなしとげる三つの条件がある。 それは、①若いこと、②貧乏であること、③無名であることだ」と。

パロディというのは、本来(見る人が)元ネタを知らないと成立しないものだと思うんですけど・・・・・・。

コピーライターになりたいっていう生徒に三種類のまちがい人がいる。 ひとつはオーソドックスに先輩のまねをする人、もうひとつは先輩がやっても無駄だからやらなかったことを自分では革命だとか冒険だとか思ってやる人。 たとえば「うんこ」って書く人。 もうひとつは「星目がち」な人たち。 この三種類がいるんですよ。

それを具体的に分ける方法を思いついたの。 すごい単純に言っちゃえば星目がちな人たちは恋人にプレゼントする花束を野で摘んでくる人なの。 要するに、ヒメジョオンでもわたしがまとめれば可愛いし、心がこもってればいいと思っている人。 いやだ、おれはそれは、って言ったの。 ヒメジョオンはやめてくれ、おまえ、小遣いぐらい持っているだろうと言いたい。 もうひとつ、革命的な人たちはドクダミ持ってくる人たち。 おれは、迷惑だからやめてくれ。 で、もうひとつは赤いバラとかカスミ草の組み合わせで持ってくる人なの。 この三種類のまちがい人がいるわけ(糸井重里)。

結局、いつもそこから始まるしかない。 メチャメチャな時代にも、いいことや、ドキドキすることはちゃんとある。 ナウシカの、「我々は血を吐きながら、繰り返し繰り返し、その朝を越えて飛ぶ鳥」なのです。

以上(見出しはオイによる)。 出発点を読み終えるや否や、物置からナウシカ全七巻を引っ張り出してきた。 今晩から読みはじめよっと。

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